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韓国の漆原にある修練院です・
圓和道の�八方向の図です。

 圓和道の基本の型は八方向に五つずつあり、合わせて四十の型がある。他の一般的な武道の型に比べると数的には多くはない。
 自分が前を見て立つ時、右側半分の方向へ行く攻防を『内攻防』と言い、左側半分の方向へ行く攻防を『外攻防』と言っている。前方への攻防は『正面攻防』であり、後ろへの攻防は『後面攻防』である。各々、八方向に呼び方が付いている。(上図参照)
 この基本の型は即時に実践に応用が可能なのだが、日本で実施されている武道場での緊張感が漂い、スピード感のある型を正確無比に行うことと比べると、圓和道の基本技は、ゆったり感と柔らかな円の動きが要求されている。
 この相違点は、日本の琴の音色と、韓国の
伽耶琴(カヤグム)の違いと合い通ずるだろう。しかし、それでいて『氣』の世界では力が充満し、丹田にも力がみなぎっていなければならないのだ。この氣を感じること。氣をめぐらせることこそが圓和道の奥義とされている。

圓和道大会時の韓国文化演舞です。チマチョゴリを着ている女性がカヤグムを弾いています。

伽耶琴(カヤグム)

 韓国を代表する伝統楽器で、3世紀から6世紀中頃にかけて韓半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた伽耶国で作られたのが始まりとされる。現在は韓国を代表する伝統楽器として親しまれているが、日本の琴よりも弦がゆるめであり、音も緩い音で甲高い音では無い。日本へは奈良時代に伝わった。

「伝統的な楽器」のもつ、音楽性や文化性、精神性を理解するには五感を通した出会いによって、初めて知ることができます。

 何故、そのような基本姿勢なのか、どのような技法なのか、一つ一つの振舞いの意味が何か、その価値を理解するには比較という知的作業が必要です。そして、感じるという感性も必要であり、何よりも実践を通してこそ体恤することができるのです。

 武道も五感を通して知ることができますが、その背後にある『文化と歴史』の違いを実感することがより重要です。また、今日の様々な流派があり、そこから更に分派すること。さらには国という枠を超えて見るときには、更に大きな衝撃、カルチャーショックを受けることでしょう。

 圓和道を学ぶときには肩の力を抜き、緊張感から解き放たれてください。圓和道の奥義は『脱力』にあるのです。脱力により本来的な心の世界を取り戻し、それを治めることができなければならないのです。心を治め、心の力を発進するのです。自分の意思ではなく天意が自分を動かすのです。

審査会
1. 日本圓和道協会における昇級・昇段候補者の審査は、日本圓和道協会の規約に従って行われる。
ただし、昇級候補者の審査に対しては、基本的に各支部道場長に一任する。また、日本圓和院長の提案による特別事由がある昇級・昇段候補者については、この内規によらないで審議することができる。


2. この規約に示された最少年齢、修行年限、試合(演舞等を含む)成績等は、最低の基準を示したものであり、この基準に達しない者は審査の対象にならない。

3. 級位・段位は逐次昇段することを原則とする。
ただし、特別の事情がある者については、その事由につき精査した上で、跳んで昇級・昇段することを認める場合がある。

4. 昇級昇段の最少年齢は次の基準による。
ただし、抜群昇段及び特別昇段については、この基準にかかわらず昇段させることができる。

 ■昇級する級位と昇級できる最少年令

 8級-満5才 7級-満6才 6級-満7才 5級-満8才 4級-満9才 3級-満10才 2級-満11才 1級-満12才

 ■昇段する段位と昇段できる最少年令

 初段-満13才 二段-満16才  三段-満19才  四段-満 -才  五段-満­ -才  六段-満­ -才  七段-満­ -才  八段-満­ -才  

 (四段以上は師範であるので(社)世界圓和道連盟の審議を必要とする)

昇段昇級の八段階を説明している。

昇段する段位と審査の型

成和(正1級〜初段) 赤帯(一般武道の黒帯)

平内攻防 一番~三番

正和(二段〜三段)  茶帯(エンジ色)

平内攻防 四番~五番

​四段以上は下記の通り

■(社)世界圓和道連盟からの資格状授与

■世界指導者修練会参加者

人和(四段〜五段)  茶帯の中に緑の線

側外攻防 一番~五番 側内攻防 一番~五番

地域社会に対する貢献度。

氣の蘇生修練を指導でき、人を癒す。

忠和(六段〜七段)  茶帯の中に青の線

走外攻防 一番~五番・走内攻防 一番~五番

地域社会に対する貢献度と国家基準での貢献度。

氣の長生修練を指導でき、環境を癒す。

心和(八段〜)     茶帯の中に白の線

世界基準での貢献。

氣の完成修練を指導できる。

圓和(十段)      茶帯の中に黄の線

天宙基準での活躍と貢献・氣の完成修練を指導でき、環境を癒せる。

大圓和

孝子・忠臣・聖人・聖子・神人愛一体を成す。

参考 圓和道錬武館 色帯区分表 型参考 2021年11月5日現在

      無級~白帯           体解き・回転攻防・歩法・受け身

      8級~黄帯           正面攻防 一番・二番・三番

      7級~黄帯に黄色の1本線    正面攻防 四番・五番

1)型和  6級~緑帯           平外攻防 一番

      5級~緑帯に黄色の1本線    平外攻防 二番

      4級~緑帯に黄色の2本線    平外攻防 三番

2)力和  3級~青帯           平外攻防 四番

     準2級~青帯           平外攻防 五番

      2級~青帯に黄色の1本線    後面攻防 一番

     準1級~青帯に黄色の2本線    後面攻防 二番

3)成和  1級~赤帯に黄色の1本線    後面攻防 三番(一般武道の黒帯)

     準初段~赤帯に黄色の2本線    後面攻防 四番・五番

審査内容

1.型    型和:正面攻防・平外攻防

       力和:平外攻防・後面攻防

       成和:後面攻防・平内攻防

2.応用動作 型和:正面攻防の応用

       1)直打ち 2)受け打ち 3)投げ 4)関節技

       力和:正面攻防・平外攻防の応用

       1)直打ち 2)受け打ち 3)投げ 4)関節技 5)投げからの関節技 6)短刀取り

       成和:正面攻防・後面攻防の応用

       1)直打ち 2)受け打ち 3)投げ 4)関節技 5)投げからの関節技 6)短刀取り 7)長刀取り

       8)二人掛け・試し割り

3.筆記試験

 世界の多様な国々が、その国固有の信仰と神話、そして文化を持っているが、その中に『建国神話』や、『天孫降臨思想』を持つ国も多い。韓民族には天孫として降臨した『檀君』によって国が建てられ、檀君を国の祖として国民一人一人が檀君ハラボジ(お爺さん)と呼び、その子孫であるという思想が根付いている。

 韓民族は人が亡くなることを「トラカショッタ(帰って行かれた)」と表現する。我々の父祖は天から降臨し、その血統を受け継いだ我々は地上の生活を終えると再び天に帰って行く。この考え方こそが『圓の思想』である。

 生まれた所へ帰って行く。日本語では「行ったり来たり」と表現するが、韓国語では「ワッタリ カッタリ(来たり行ったり)」と表現する。天から弧を描いて降りて来た天孫が、時がくれば再び弧を描いて帰って行く。

 この神話の中では天孫の誕生は丸い『卵』から始まった。大宇宙も丸であり、心の形も丸である。極大から極小に至るまで全てが『丸』。即ち、その中心は天であるとする『圓の思想』が息づき、生活文化の中に根付いている。

 人が天に祈りを捧げる時の動作が『비손 ピソン(祈手)』である。古代倍達族(韓民族)の祈りは、天を圓としてとらえ両掌を丸く円を描きながら擦り合わせ、体を前後にあるいは左右に揺らしながら祈る動作となった。

 圓和道では、一番初めに習う技がこの『ピソン』が少しずつ大きくなっていった形の『回転攻防』である。この回転攻防は下から上に向かう上段回転攻防と上から下の下段回転攻防からなる。

圓和道では、一番初めに習う技がこの『ピソン』が少しずつ大きくなっていった形の『回転攻防』である。この回転攻防は下から上に向かう上段回転攻防と上から下の下段回転攻防からなる。

濊(わい)族

 言語学的には韓国語と日本語は同じアルタイ諸語族とされている。 

「高句麗地名」中の日本語に類似した語は、朝鮮半島中部以北、鴨緑江以北部にまで 及ぶが、これらは濊語要素であると考えられる。

 濊族の活動は紀元前1100年以来確認されている。濊人は、海民・内陸水系民として、水産加工品の物流販売の商業活動にも携わる越境する漁撈狩猟民的性格を持つ一方、定住農民として韓人と同一村落に共棲した。

濊族の活動は紀元前1100年以来確認されている。濊人は、海民・内陸水系民として、水産加工品の物流販売の商業活動にも携わる越境する漁撈狩猟民的性格を持つ一方、定住農民として韓人と同一村落に共棲した。

 

 濊人は魏晋代(184年-589年)には既に漢字の高い読解記述力を有し、世界初の変体漢文である「中原高句麗碑文」は濊人を媒介者として漢字の音訓を朝鮮半島に定着させた最初の例であると考えられる。

757 年の地名改正による「高句麗地名」中の日本語に類似した音訓表記は濊語によると考えられる。

6~8 世紀の濊語と古代日本語が何らかの系統的関係にある可能性が考えられる。

「濊倭祖語〜大陸濊倭語〜8 世紀濊語は10 世紀頃 消滅」

「濊倭祖語〜列島濊倭語〜日本語・琉球語・八丈語」

 濊語は慶尚道、全羅道を含む朝鮮半島全域で 3 世紀以来、韓語と共に話されていたと考えられる。濊語派は6世紀までに系統が途絶え、倭語派はそれを知らない時期に分岐したと考えられる。

濊倭語族は朝鮮半島において韓語の影響により文法的なアルタイ化を経験したと考えられ、一方、慶尚道方言、江原道三陟・江陵・寧越方言の「声調」等は日本海側に優勢であった濊語の 影響による「地域特徴」であると考えられている

 紀元前2世紀の中国東北部にいた「濊(わい)」「貊(はく)」は、濊貊・沃沮(よくそ)・高句麗・夫余の四種族の前身である。

 現在の韓国江原道溟州にいた「東濊」は前漢代の中国東北部にいた濊の後裔とされる。史書には、夫余の出自が濊とみられる記述があり、また貊を高句麗の別名または別種と記す。

 

『後漢書』では、濊・沃沮・高句麗は元々朝鮮(衛氏朝鮮)の地に居たと記す。

 濊族は松花江上流の弱水河(奄利大水、現拉林河)を渡り南進した。夫余を建国する以前の慶華古城が発見され、『濊城』も発見されている。

 

蒼海郡の設置と廃止

 元朔元年(紀元前128年)秋、匈奴(きょうど)が遼西郡に侵入してその太守を殺害し、漁陽郡・雁門郡にも侵入して都尉を破り、3千人余りも殺害した。

 これに対し、漢は将軍の衛青を雁門郡から、将軍の李息を代郡から派遣し、千人分の捕虜と首級を得た。この一件に際して東夷の濊の君主の南閭(なんりょ)ら28万人が漢に降ったため、そこに蒼海郡を設置した。

 

漢は元朔3年(紀元前126年)春、蒼海郡を廃止した。

夫余(扶餘)国

建国神話

論衡』吉験篇に次のような記述がある。

 「昔、北夷に橐離国(たくりこく・고리국・コリクッ)があった。国王が侍女を妊娠させてしまったので、殺そうとした。侍女は『以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごもりました。』と言い、王は騙された。

その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。

 東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈(すっぽん)が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった」という記述がある。

 『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖である朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、高句麗を建国した話が載っている。

『三国史記』『三国遺事』には、解夫婁(해부루・へブル)王が治めていたがのちに太陽神の解慕漱(해모수・ヘモス・朱蒙の父とも伝わる)が天降ってきたので解夫婁は東に退去して別の国(東夫余)を建てたという。

 夫余、高句麗、百済の建国伝説は、各国の始祖が生まれた国で迫害を受けて逃亡し、大河を越えて新しい土地で王となるという構成において全く一致している。高句麗、百済、新羅の三国は同じ夫余から始る血を分けた兄弟国家であると考えられる。

 夫余国は太和18年(494年)に勿吉(もっきつ)に滅ぼされた。勿吉は、中国の南北朝時代に、高句麗の北から満州地域に住んでいた狩猟民族で、現在の松花江から長白山一帯に居住していたと思われる。粛慎・挹婁の末裔で、唐代における靺鞨の前身である。

花郎道のルーツは高句麗の先輩制度

 神授檀 大祭は天に捧げられたオリンピック 

 相撲や空手のように、日本で発祥したとされる格闘技の歴史を繙(ひもと)くときに高句麗、百済、新羅からの影響を抜きにしては語れない。韓国や北朝鮮の格闘技である跆拳道(テコンド)はもともと手搏( スバク、수박)と呼ばれ、中国に伝わっては「拳法」となり、沖縄に渡って「空手」となったとされる徒手格闘技である。

 相撲の伝播についてはいまだ定説がないにつけても「シルム・실름(朝鮮相撲)」との類似性から推考すると、やはり朝鮮半島からもたらされたと考えられる。ほかに、「撃毬  격구・キョック 」というポロ(馬に乗って行うホッケー)も古い宮廷スポーツだが、これも統一新羅時代に朝鮮半島から伝わったとされている。

 我が国の“国技“だとする民族スポーツのルーツが、古代の朝鮮にあるというのは驚きだろう。しかし、二千年もの昔、高句麗はではすでにそれらのスポーツが盛んに行われ、重要な身体文化財となっていたのだ。骨品(身分)制度の厳しかった高句麗に、有力な武士集団がみられたが、その武士団は身分制度とは関係なく、一般人から登用されていた。

 

高句麗

 東明聖王は、高句麗の初代王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)である。「東明聖王紀」によると姓は高、諱は朱蒙(チュモン)とされる。以前、韓流ドラマで有名になったあの『朱蒙』である。

 瑠璃明王は、高句麗の第2代王(在位:前19年 - 後18年)であり、諱は類利(유익・ユリ)。初代の東明聖王(朱蒙)の長子である。『三国史記』百済本紀によれば、異母弟に沸流と百済国の始祖となる温祚という三人の息子がいた。

 二世紀頃に太祖太王(朱蒙のひ孫)が、更に強力な国を築きあげたが、その要因のーっとして、気力に満ち、勇気溢れる青年達を中心に「先輩(선배・ソンべ)」と称する武士団制度を創設し、国家体制の強化と繁栄を促進させた。

 毎年三月と十月の神授檀(신수단・シンスダン)という大祭では大衆を集め、祭典競技会を開催。高句麗版のオリンピックで、権威のある大会であった。神のもとで開催された神聖なスポーツ大会であり、祭典に集まった群衆に、手搏・相撲・弓術・刀・片脚跳・水戦・剣舞・歌舞・大狩猟の競技を挙行し、各種の勝負の結果、その勝利者を「先輩(ソンべ)」として選出、任用し、武士団を構成したのである。

 

 彼らは国家からかなりの俸禄を与えられ、家を出て隊を組織して一軒家で共同生活を営んだ。そして、故事の研究、学芸の習得、山水の探検、また城郭を築いたり、道路を整備したり、人々のために講習をしたりして一身を社会と国家に捧げ、あらゆる困苦を辞さなかったのだ。

 

 その中でも性行と学問と武芸の最も優秀な者を選び出して師匠として遇した。師匠は皁帛(そうはく)(효백・儀礼的贈答される黒いきぬ)でつくった衣服を着用し、その師匠の中でも上席の者を最大級の讃辞の言葉である太大兄と尊称した。

 太大兄は戦争がおこれば、すべての先輩を率い自ら一団を組織して戦場におもむき、戦場では死をもいとわず戦い、もっとも勇敢であった。 また、先輩は強力な武力を背景としているところから、強い発言権を持ち重要な地位にはほとんど先輩の骨品(身分制度)によって独占したほどだった。先輩は戦闘部隊の役割を担い高句麗の国力伸張に大きく貢献した。

 

 少獣林王 2 年(372年)に建てられた太学では武芸を必須科目として採用していたので、武士が体系的な武芸の一貫教育を受けれるようになった。また、同時期に扁堂という私塾においても太学にならった武芸教育を実施したので武芸の水準が高くなった。このような教育を実施したことによって高句麗は、勇名を馳せる強力な国家として君臨し、先輩集団はその役割を十分に果たしたのである。

 

 「先輩制度」には文武両道の精神がはっきりと見出され、高句麗の崇高なきっちりとした体制運営を想像することができる。のちのちにわが日本にも誕生した「武士道」をなんとなく彷彿させているように思う。

高句麗末期

 大ヒットした韓流時代劇「テジョヨン・大祚榮・ 대조영」に登場する淵 蓋蘇文(연개소문・ヨンゲソムン)(生年不詳 - 666年)は、高句麗末期の大莫離支(宰相)であり、大将軍であった。

 この時代は「先輩」が完全に国運を左右するほど強力な武士団に成長し、「先輩」の上席は国家の大権をも掌握し、明臨答夫が次大王を廃して新大王を擁立したり、淵蓋蘇文も栄留王を廃して宝蔵王を王位につかせる革命も起こしたが、自らが王になることはなかった。

 西暦645年、アジア全土の支配をもくろむ唐の第2代皇帝・太宗(李 世民)は大軍(30万人)を率いて朝鮮半島・高句麗への侵攻を続けた。安市城の城主・楊 満春(ヤン・マンチュン)将軍は国そして高句麗の民を守るため、5000人の兵を率いて20万人を超える大軍を撃退させた。当時の「先輩」の武芸水準は相当に高いものだったのだ。

 このように強力であった先輩集団も時代の流れにともない序々に衰えはじめ、後代に至っては武人集団として勇猛果敢を旨とする役割が次第に弱体化し、国家への忠誠心と関心が減じ学問も疎かにするようになり、その知的水準も著しく低下し、誇り高い先輩の名称は儒教徒にとってかわられた状態になってしまった。

 軍隊のたんなる武力だけの強さ、武芸尊重だけに心を砕けば、必ずと言っていいくらい崩壊した事例は枚挙にいとまがない。高句麗は宗教の祭祀を国家のために身を捧げる人材発掘の場として用いた。このことは「先輩」たちに精神の重要さを求めていたことをも物語っている。

 

 やがて百済がこの「先輩制度」を採用し、新羅が同様の「花郎道」を発足さた。このように卑賤を問わず、実力主義、体育的技術と学問素養の能力によって地位が決められた制度は、古代朝鮮の人たちに大きな活力と鋭気を生ませたに違いない。(大祚榮・ 대조영は後に渤海国を建国)

野蛮性のない他国の相撲

 神授壇(신수단・シンスダン)の大祭での祭典競技は、今日まで伝えられ、形を変えて人々の生活のなかに息づいている。相撲や跆拳道はその代表例であり、人気の秘密は民族の心のよりどころとなっているスポーツだからなのだ。

 沖縄相撲は「シルム」とよく似た相撲だったと考えられている。わが国の『日本書紀』の記述にある當麻蹶速と野見宿禰の勝負を相撲の起源とする説は、ルール上においても少し無理がある。いかなる国の相撲でも起源には野蛮性を見出し得ないが、日本の相撲だけが殺し合いだったはずはないのだ。相撲は神授壇大祭にまで遡るのではないか。米やうどん、青銅器や鉄器、仏典や儒教、皇室までも朝鮮半島からの渡来によるものは周知の事実だ。

 多様性を求められるこの世紀は、他国の文化との相互理解を深めながら『温故知新』の精神で、様々な視点からの科学的な新発見を世界会議等で検討、確認する必要があるでしょう。

 そして、新時代の新文明を切り開く知性と、それを受け止め得る大きな心と、真実に対する真摯な実践力こそ、その国々に現れた過去の武道人の『愛天・愛人・愛国』の精神を相続し、発展させ得るのです。そのような世界平和実現の先駆けとなる勇士の姿が真の武道人なのです。

(韓 奉器宗師の講和 1988年7月

 

垂直な円と水平な円の動きを基本にして球形運動は始まる

圓和道の特徴は、全ての技が円を描くように構成されていることです。垂直な円と水平な円を基本の形として、その傾きが変化することにより最終的には球を描くのです。

どうして円を描くように動くかというと、持続性、永遠性を持たせ、また、あらゆる方向へ展開させることができるからです。直線的な動きでは、それができません。そのための重要な条件が模様(型)、方向(角度)、距離(大きさ)、速度なのです。

人間の行動様式は、大きく二種類に分けられます。それは行く動きと来る動き、あるいは送る動きと迎える動き、押す動きと引く動きです。これに永遠性を持たせるために、円運動となるのです。

圓和道の技がその円形運動を変化させていくと、時に柔道のような形になったり、跆拳道(テコンドー)のような表現、合気道のような姿を現すことができるわけです。

私は、もともとは新しい武術を始めようという気持ちは全くありませんでした。武道の実力も一般の学生以上のものではなかったのです。

ところが十数年前に、霊界を通しておかしな動作を見せられるようになりました。当時の私には、何かのダンスのようであり、これは低級霊による雑霊現象だと感じて、警戒していました。「自分が神の願いとは異なる方向へ進んでいるために、警告を与えられているのではないか」。と感じて、断食したり、徹夜の祈祷をたび重ねたのです。

けれどもその現象が止まらず、とうとう三年も続いていたある日、私はその霊と積極的に戦って追い払うことを決意したのです。

すると、いざ戦いはじめて気がついたのは、今まで雑霊現象だとかダンスのように思っていた動作が、実は武術の型だったのです。

 

練習方法は、霊界を通じてのマインド・トレーニング

そこから一転して、型の整理を始めました。ただ整理したり、練習したりする時間は、それほど要りませんでした。

と言うのは、練習方法がとてもユニークなのです。まず霊界を通して新しい型が示されてくると、その霊に対して、霊的なもう一人の私が型を練習するわけです。その光景を傍から私自身が見つめながら、違う箇所を指摘して正していくのです。

まず頭の中に、型の正確なイメージを植え込んでいったのです。そのために、実際に体を使っての修練では、きわめてスムーズに修得していくことができたのです。

ただし難点もありました。

確かに型の一つ一つは比較的、楽に身についていくのですが、それらがどのような意味や連続性をもつ枝なのかが分かりにくかったのです。ただ、練習が進んでいくうちに一つ一つがどれほどの応用力をもつかが分かってくると、逆に驚嘆の連続でもありました。

 

圓和道の技の原型から理念に至るまで、三段階にわたって指導

その一方で、幻の中に現れては具体的に指導してくださったある方の存在も忘れられません。その方の指導は三段階にわたりました。初めは、圓和道の原型となる技を指導して下さいました。「こういう動作をしてみなさい」。と命じられ、私の動きに対して、「合格」「不合格」の評価をして下さり、板を持って来られては「蹴ってみなさい」と命じられ、「よろしい」とおっしゃるまで、あらゆる体勢、方向、角度から私に蹴らせ続けるのです。

次には、柔道や跆拳道(テッコンドー)などのあらゆる武道の道場に連れて行かれ、修練風景をじっくり見せられました。そこでは、私が今まで見たことのないような稽古の方法や技が数多く繰り広げられていたのです。

三段階目は、図書館のような所へ連れて行かれて、武術に関する数限りない著作を読ませられました。圓和道を理念的にも整理し、体系化していくための研究の期間でした。

それまでは、ただ私が個人的に修練するためだけの稽古をしていたのですが、1976年頃から、この武術を圓和道として。それまでの仕事を一切やめて、武道家として専念するようになりました。

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